@article{oai:nagajo-junior-college.repo.nii.ac.jp:00000027, author = {小林, 幹男}, journal = {長野女子短期大学研究紀要}, month = {Dec}, note = {application/pdf, 中山道は、東海道に次ぐ主要な街道であり、板橋・草津宿間67次であるが、一般的には東海道と重なる草津宿と大津宿を加えて「中山道69次」といわれている。中山道の宿駅は、社会の安定と経済の発達に伴って、物質の輸送や人馬の継ぎ立てが増加し、参勤交代の大名、一般旅行者の通行によって賑い、江戸後期になるとさらに輸送量と通行者が増加して繁栄した。しかし、宿駅や助郷村は、一方で無賃、または低賃銭の伝馬役などを強制され、その不足分を補填しなければならなかったため、財政が窮乏し、幕府や藩に窮状を訴えて減免を願い、宿駅と助郷村の紛争も相次いだ。孝明天皇の妹和宮が、公武合体の政治的意図によって、将軍徳川家茂に嫁ぐため東下した文久元年(1861)のいわゆる「和宮様の御通行」は、空前の大行列であった。この大行列の人数は、京方1万人、江戸方は京都所司代をはじめ、お迎えの人数を合せて1万5千人、合計2万5千人といわれ、御興の警護12藩、沿道の警護29藩、総勢およそ8万人と伝えられている。この大行列通行のために動員された人馬は「御小休」の長窪宿の場合、定助郷12か村、当分助郷29か村、人馬6,350人、645疋と記録されている。このことからも「御泊」の和田・八幡・沓掛宿、「御昼」の芦田・小田井・軽井沢宿などの負担を窺うことができる。}, pages = {15--29}, title = {幕末期における中山道の助郷に関する研究}, volume = {6}, year = {1998} }